何もわからないけど「えんとつ町のプペル展」を開催する

昨日、こんなこと呟いて→「障がいを抱える人限定?とかで開催したい。この話は夢を持ってる人を応援する。障がいを抱えると、家族にさえ言えない、自分でも叶えられないと思うような夢が。時間はかかっても諦めなくていいんじゃないかって。そんな想いを込めて。やりたい→『キングコング西野の個展《えんとつ町のプペル》を入場無料で開催したい! http://camp-fire.jp/projects/view/10837 』」

その支援の一つ『あなたの町で《えんとつ町のプペル展》を開催できる権利」を支援した。

っていうことは、開催するんです。こっちで。何も知らない私が。狼煙を上げて。狼煙を上げる?おぉ、随分と大きく出ましたね(笑)

私の中で、開催期間中のある一定期間でも、障がいを抱える人がゆっくり安心してLED照明で光るプペルの絵を観て廻ることができるような環境を作りたいと。

LED照明で光る絵ですから、暗いんです。

障がいを抱える人が、そんな環境、安心して観て廻れると思うか?って問われたら、「わかりません」としか答えられない。本当に。

また、そんなイベントをこれまでに開催したことがあるのか?と問われたら「1度もないです」と言うしかない。

何をする必要があって、何から手をつければいいかもわからないし、障がいを抱える人を対象にって言っても、結局は出かけることができる方々しか観ることはできないし、こんな思いつきみたいなことに手を貸してくれる人がいるかどうかもわからない。

いろんな、いろんな、そんなことできるわけないだろって考えが浮かんでくる。

でも、消去法の考え方は何一つ生み出さないと思ってて。

アインシュタインの有名な言葉に「その問題を生み出したのと同じ思考では、決してそれを解決できない」というのがあるけど、これは自分自身の経験からも思うことで、消去法の考え方が正にアインシュタインの言ってる解決できないやり方なんだよね。愚痴を言ってるだけって言うのも同じ。

愚痴を言うってことは、何かそこに不公平感なり違和感を感じてるってことだから、その違和感が何であるか見極めることができるのは、愚痴ってる本人だけ。それを見極めたときに、その元にあるものが個人的な経験からくるものであろうと、何だろうと、その違和感を感じさせたものがどのようなものだったら、違和感を感じなかったのだろうか?ってことを私は考える。

そこにあるのは、貴重な存在である自分を尊重するってことなんだ。

そして、それを大事にする先には、恐らく、おそらく他にも同じように感じている人がいるだろうという想い。

いや、いないかもしれない。ホントに。私に障がいを抱えた人の何がわかる?って?何もわからないよ。私は私を基準にしかできないから。

でもそれを元にして何が悪い?

この「えんとつ町のプペル」というお話は、たとえ周りの誰一人お前を信じようとしなくても、お前は最後まで自分を信じきれって言うんだよ。

だからね、これは私は私を最後まで信じきれるか?って、自分への挑戦なんだ。

父が脳出血でさまざまな障がいを抱えた後、いくつもやりたいことがあったのにも関わらず、制度的なことや人手のことやいろんな制限で叶えられなかったことがたくさんあった。そして叶えられないという事実を目の当たりにする度に、父の中の生きる気力が失われていき、死に向かっていくのを私は見ているしかなかった。

人は病いで亡くなるわけじゃない。生きることを諦めたときに、死が忍び寄ってくる。本人が招き寄せるんだ。自分が彼方の世界へ逝きかけて帰ってきた経験からも、そう思う。

障がいを抱えたんだから、障がいがない人みたいに生活できるなんて、何我儘言ってんだ?って?我慢しろよって?十分な福祉制度があるだろって?

いや、ふざけんな、だよ。お前こそ、黙ってろ、だ。

お前、自分がその身になったとき、そうやって自分の思いを自分で殺すんだな?お前はいいよ、それで。自分で選んでんだから。でも、私は絶対イヤだ。私が父と同じ状況に置かれたら、絶対今の福祉で満足なんかしないよ。極端すぎる言い方かもしれないけど、今のヤツはまだ何処までも昔のハンセン病の隔離政策と基本は大きく変わってないんだよ。そんなのに、何故納得できる?できないよ。一人の人間として尊重されてないんだよ?どうやって納得できるって言うんだ?

いや、そんなわけないだろって?

もちろん、いろんなことが改善されてきてるのは知ってるし、福祉制度が充実してきているのは事実だと思う。

でも気づいた人いるかな?これ、消去法の考え方なんだよね。

実はそうして多くの障がいを抱える人に我慢を強いているのが現状で、それを変えようと思ったら、何処に我慢があって、その我慢を強いない方法って何だろうか?って考えたいんだよ、私は。

あぁ、はいはい。世の中、障がい抱えても、今の福祉で十分満足してる人はたくさんいるとか、ほざくヤツは勝手に言ってろ。

それに「えんとつ町のプペル展」の開催に、福祉がなんの関係があるんだ?って?待ってろよ。

さっきも書いたように、死は生きることを諦めた人が招き寄せる。人が生きることを諦めるときって、どんなときだろう?

自分がこの社会の中で価値ある存在と感じられなくなったとき。

これが1番大きいと思う。自分が生きている意味を見いだせなくなったとき、人は死に向かう。

生きるか死ぬか、自分が選んでいるんだ。

だったら、人がこの社会の中で価値ある存在と感じられるためには何が必要だろうか?

これは外から何かを与えれば解決する問題じゃないと思う。それは傲慢というものだ。自分自身の力を信じていない人が陥りがちな考え方ややり方。

必要なのは、その人自身が消去法でなく、自分自身の力を信じられること。

障がいを抱えてなお、その経験も含めてすべてが価値あるのだと、いろんなことに活かせるのだと本人が思えなければ、根本的に必要な変化は生まれてこない。そう思う。

結局、必要なのは本人の中に生まれる変化でしかないし、それは周りが何かしたからと言って生まれるものでもない。結局本人がそう思えるかどうかに尽きるんだけど。

でも、この「えんとつ町のプペル」は、そっとそっと「僕は君を信じる」って伝えてくれる。

結局、私の個人的な想いで、観た人が何を思うかなんて左右できるものではないけど、これまでもいろんな言い方で伝えてきた私の想いでもある、「えんとつ町のプペル」も伝えてる「僕は君を信じる」って言葉を伝えたい、それだけなんだ。

だから、想いを消去しようとするさまざまな考えは無視して、うん、徹底的に無視して、その想いを実現するために必要なことを考え行動する建設的なやり方を取るよ。うん。

って、すんごく西野さんチックな文章でした( *´艸`)

Author: absolute_spirit_with_you

Thinker, Spiritual seeker, Philosopher. The truth I found is that it's only me to accept. I, not I, am the only one who exists in the infinite universe. It's only now and here.

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